スポーツ産業の変遷と私の履歴書(9)

次でラストという連載になります。9回目は2010年から2012年にかけてを書いてゆきたいと思います。この頃のFC岐阜については木村元彦氏の著書『徳は孤ならず 日本サッカーの育将 今西和男』に詳しく書かれていますが、そこに私周りの話は全くなかったりします。

恐らく、今西さんの持つ地域貢献活動を重視する理念に対しては、社内で、どちらかといえば対抗勢力的な立ち位置にあった印象もあるでしょうし、岐阜県庁とのやり取りにおいても、Jリーグという組織に対しても、直接的には繋がらない、いわゆるBtoC(対顧客)の仕事を担っていたこともあると思います。

研究の世界の話になりますが、FC岐阜が経営危機と戦っていた2009年8月、日本経済研究所から『Jクラブの存在が地域にもたらす効果に関する調査』という名の調査結果が発表されています。


・Jクラブは、(中略)「ソーシャルビジネス(社会的企業)」としての性格をもつ

・Jクラブの活動は、「ソーシャルキャピタル(社会関係資本)」の源泉(中略)となりうる

・上記を踏まえ、わかりやすい言葉で言うと、Jクラブは「地域の重要無形文化財」になりうる


調査自体は全クラブを対象に行っている観戦者調査とは異なり、仙台、川崎、甲府、G大阪、愛媛、大分の6クラブのみを抽出して行われたものですが、この論文は、Jリーグのサポーターの間でも広くシェアされるほど影響力があり、岐阜においてもその影響は実感としてあったのでした。

「子どもたちに夢を!」という理念のもと、サッカーの普及活動にとどまらず、様々な活動をJリーグのなかでもトップクラスの頻度で推進していたクラブです。

FC岐阜にも、学生のインターンシップが当時も来ていたのですが、興行ノウハウやファンエンタティンメントを学びたい、という学生よりは、圧倒的に「地域貢献活動を学びたい」という若者が集まってきていました。

確かに、スポーツクラブの存在が地域にとっての誇りになり、地域社会に存在する様々な課題に対し解決策となる、この美しい可能性について追い求めることに誰も異論はないと思います。ただ、この社会で会社体として存在している以上、経営というものを抜きに語ることはできません。

2010年は長良川メドウ開催のなかで、クラブ職員が一丸となり、最終的に100万円の黒字となりました。当時の計数管理は、銀行からの出向職員の方の管理スキルがずば抜けて高く、特にキャッシュフロー管理については、全部署の入出金計画を逐一提出させ、デイリーベースで把握し、その情報を全職員に開示するようなレベルで行われていました。

( 自分が勤務した別クラブでは四半期ごとにクラブ全体の収支状況をチェックし、方針を修正するようなレベルでした。)

社会人生活を15年近く経験している僕も、そういった管理手法は傍目に勉強になりましたし、その方の管理に応えられるべく、BtoC事業のKPI管理(予算に対する乖離だけでなく、客単価の変化や、販売券・招待券の着券率把握、入場者数予測の精度向上など)に必死で取り組みました。

経営陣の意向で、2011年度のクラブ予算が約1.5億増の約6億円に設定されたのですが、シーズン開幕時から、まだ枠が埋まっていなかった胸スポンサーに無償提供の広告が掲示されることになり、事業系のスタッフは揃って憤慨していました。億単位増しの予算計画を組むなか、一番お金を生むことができる枠を、最初から活用できないわけなので、至極当然です。

そのような折、開幕2戦目の人気カード・FC東京戦を控えた3月11日、東日本大震災が発生します。

FC岐阜の事務所でも、まるで大きな波の上に乗っているような、経験ない揺れがあり、TVモニターで津波に流されていく東北の街の様子を見て、そもそもこういう時、インフラ産業とまでは言い難いスポーツというものは無力だ、と私は感じ、被災地でないのに、情けなくもしばらく体調を壊してしまったのでした。

( 記憶が確かならば、震災発生後の3月16日、岐阜の長良川球場で、巨人軍のオープン戦があったのですが、軒並み多くのスポーツ興行団が自粛ムードにあるなか、募金活動を行いながら、試合も予定通り行うという出来事がありました。この時ばかりはスポーツ興行の先駆者としての矜持を感じました。)

約1ヶ月の中断期間があり、リーグは再開したのですが、設定された予算に対して応えることができませんでした。それとともに、地域のなかでも、FC岐阜の経営陣が県外出身者で占められていることに対する不満の声を聞くことが増えていきました。

岐阜のサポーターの方々は、とても親切で、色々な場面で助けて頂くことも多く、よい思い出ばかりなのですが、色々と営業をしてゆくなかで、自分自身が愛知の出身であったり、特に豊田出身ということを明かすと、弾んでいた会話が急に途切れるような経験もありました。

トヨタの「カンバン方式」は親会社にとっては都合いいけれど、岐阜に点在する下請け・孫請けにとっては命がけの仕組みなのだ、と、縁者を過労で失った方の話を、聞かせて頂いたこともあります。

自分に至らぬことがあれば、それを直すことで対応できるのですが、生まれ育った出身地を変えることはできません。自分の真実を隠して生きることほど精神的な負担もありません。

社長以下経営陣や、その縁で集まったメンバーたちがクラブを離れてゆく時期より、随分前のタイミングになりますが、またも限界を感じた私は、2012年の4月にクラブを離れることを決めました。

このシーズンから、地域貢献推進部のメンバーたちとも、地域活動から集客という流れをつくるべく、そのリターンを把握できるような仕組みも仕込んでいたので、その運用を前に自分が尽きてしまったことは、今になっても悔しい思い出です。

Jクラブだけでも3つ転々とし、その前にも転職歴ある私は、次の道をどうするのか完全に途方に暮れます。岐阜で暮らしていた部屋の前には、清流・長良川が流れていて、その川沿いの道を何も考えず、ただひたすら歩くだけの日々を暫く過ごします。

長々しい自己紹介投稿は、次回投稿で終わりになります。

参考文献:日本経済研究所(2009)Jクラブの存在が地域にもたらす効果に関する調査【概略】, p.12

みるスポーツ研究所―MIL Sports Institute―|Hiroshi Okada's Ownd

プロスポーツビジネス分野の講師を務める MIL Sports Institute代表・岡田浩志が、スポーツ産業の現場で起こっている最新動向を、関心ある方々に発信しています。

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