スポーツ産業の変遷と私の履歴書(10)
今回でこのテーマでの話は最終回になります。とりとめもない文章を読んでくださっている方々に心より感謝申し上げます。FC岐阜を離れ、4チーム目を求めることが現実的でないと感じていた、39歳目前の2012年の春について、そして、今の道を選んだ経緯を書き残し、このタイトルでの投稿を終わりにしたいと思います。
FC岐阜退職後は、とにかく放心状態に近い状況にあり、簡単には次の働き方がイメージできず、苦しい日々を過ごしておりました。そのような折、グーグルを使って思いつくままにインターネット上を検索していた中で、母校の大学院・早稲田大学スポーツ科学研究科のページに行きつき、業界歴が5年あれば、入学の要件を満たす旨を把握します。
しかし、薄給のスポーツ界で勤務し、高額な学費を用立てすることも叶わないなかで、経営をきちんと学びたい、という意思があっても、それを実現に移すことは難しく感じていたのです。
4月のある日、失意のなか実家に戻り、恐る恐る両親にはっきりしない今後のビジョンのなかでも、大学院に通って学び直しをしたい、という意思について、ダメもとで話してみました。
自分の予想に反し、父親から「教育は親の責任」という言葉を聞くことになり、人生最大のピンチを救われることになります。
学費などの支援を得ることができ、6月にあった大学院の説明会を聴きに行きます。秋と冬に試験があり、翌4月に開講するスケジュールになっていましたが、自身が応募要件を満たすことを確認し、6月末、岐阜の部屋を引き払って、7月1日から東京に引っ越すことになりました。
その間仕事探しも並行したのですが、スポーツビジネスの専門学校のホームページに講師募集のバナーが軒並み出ており、エントリーすると、業界経験者だからか、比較的容易にアポイントは取れる状況にありました。
しかしながら、すぐに大量のコマを発注してくださる学校もなく、それ以上に自身経験してきたことが、スポーツビジネスのなかでは限られた領域でしかないことを自覚するに至ります。収入もあってないに等しい状況のなか、学生が暮らすようなアパートで、3パック98円の焼きそばを焼いて食いつなぐような、40歳前にして底辺極まりない生活が始まったのでした。
ただ大学院で学びながら、その学んだものを含め、自身の経験してきたことを学校でフィードバックしてお話しする時間はとても有意義で濃密でした。2013年からはスポーツ現場での産学連携事業もスタートし、自分がまさにやってきたようなお仕事を、これからの世代が汗かきながら経験してゆく場にも立ち会うことになります。
スポーツ産業の話もしますと、この2012年前後は非常に重要な流れがありました。2001年からのスポーツ振興計画10年の積み重ねを経て、2011年にはスポーツ界の法的根拠であるスポーツ基本法ができ、スポーツを生涯楽しむことが、障害の有無等関係なくすべての国民の権利として定義されます。2012年のロンドン五輪ではパラリンピックも活況で、有意義なレガシーを後世に残すものとして伝わり始めた頃です。
通っていた大学院は、様々なスポーツ分野で国内だけでなく世界を舞台に第一線で活躍中の方が集う場でした。刺激に満ちた環境に違いなかったのですが、一方で自分自身のスケール感や経験不足に悩むことにもなりました。
この大学院では、1年間で所定の単位を取得すること以外に、学術論文を1本仕上げる必要がありました。テーマ探しは誰もが苦慮するポイントだと思うのですが、私はサッカーのお仕事のなかで、積極的な招待券施策や地域貢献活動の経営への貢献に疑念を懐いていました。
国内の研究の世界では、招待券施策を是とするものや、経営学というよりは社会学寄りのソーシャルキャピタル(社会関係資本)論に立脚した研究が全盛の頃でした。逆に海外の研究には、企業のCSR活動とCFP(企業の財務指標)の間には有意な関係性はない、と断言するものもあり、私はデータでの実証を経て、きちんとわが主張に筋を通したい思いもありました。
しかしながら研究の骨格は作れども、指導教官は首を縦には振ってくれません。日頃から『研究のための研究ではなく、あなたの人生の役に立つ研究をしなさい』と仰る教授でしたので、「そんな研究が明らかになったことで一体なんの役に立つの」と言われておりました。
そろそろ研究テーマを明確にしたかった自分は、半ばやけくそで、ゼミの授業で人生相談を持ちかける発表資料を作ったのでした。
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