スポーツ産業の変遷と私の履歴書(5)

2004年のスポーツ界は、オリックス・近鉄の球団合併構想に伴い、1リーグ制の議論なども沸き起こり、ライブドアとの新規参入合戦を経て、楽天球団が仙台に誕生する、という大きな変化があった年です。

このほか福岡ダイエーのソフトバンクへの売却など、IT系の企業がプロスポーツクラブを保有する、という時代の変化を象徴する出来事が相次ぐ時期でもありました。それだけでなく、「地域」とともにスポーツ界が自立して存立する試みが球界で目立ったのも、この頃の特徴といえましょう。2004年には日本ハムファイターズの北海道移転もありました。

この年に私自身にも、人生最大といってもよい転機が訪れます。

それは「学生の頃から応援していた地元のサッカークラブに入社する」という奇跡でした。

これからスポーツ界への就職を目指す学生にもよくお話ししているテーマではありますが、狭いと言われるスポーツ業界での就職・転職については、『人の縁』というものが重要なファクターになるという、一つの事例だと思っております。

2004年末、名古屋グランパスエイトのオフィシャルショップ「クラブグランパス」店長職に転職を果たしたのですが、この求人情報については、名古屋ローカルの求人誌に掲載されたので、当時千葉県柏市で暮らしていた私は、通常であれば、その情報を知りえぬ環境にありました。

自分自身がその求人を知ることができた理由は、当時のとあるショップスタッフが既に知人だった、ということに尽きます。

ぴあという会社に勤めていた時代があったことは、私の履歴書(3)で書きました。その時自分の正面の席に座っていた方が、とある元グランパス選手の熱烈なファンだったので、その選手が甲府に移籍した際、私も一緒に甲府に試合を観に行っていました。

その方の長い観戦仲間が、そのショップスタッフの方だった関係で、たまたま甲府にてお会いする機会があったのでした。

同じショップの仕事をしている同志だったので、その後、その方が柏に訪ねて来てくださったこともあります。逆に私が、視察で名古屋のショップを訪ねたこともあり、当時の店長さまと数時間、店舗運営などについてお話を伺ったことがありました。

2004年の秋、その店長さまが離職されたこと、求人が出ていることを、私は知るに至り、履歴書を送付し面接に挑みました。

後に伺ったところによると、最終選考に残っていた別の方は別業界で店長職の経験があったようで、店員の経験しかない私にとっては、この面接に落ちる可能性も高かったのではないか、と考えます。「Jクラブのショップ勤務経験がある」ということが勝ったのか、最終選考を通過することとなりました。

当時柏で一緒に働いていた同僚からは、「お前レベルで店長か?」と転職後もよく冷やかされていました。自分の都合で職場を離れたわけですし、とりたてて販売業務が優れていたわけでも、リーダーシップや人望があったわけでもありません。

自分自身も果たしてマネジメントが務まるものか、と不安もありましたが、前店長・副店長のマネジメントのおかげで、スタッフたちの規律はよく整っていました。集うメンバーたちが気持ちよく働ける環境を作ることに専念すれば、それ以上の指導をする必要はほぼなかったのです。

こうして、スポーツ業界を初めて志した1994年から10年経ち、プロパーの職員になることもでき、店舗のお仕事に関わってからわずか2年で「クラブグランパス店長」という役割に到達することができました。10年間の自身の経験の積み重ねもありますが、スポーツ産業の構造も、この10年間で変化したのだと思います。

ちなみに、伺うところによると5代目の店長だったそうです。当時はまだ『最期の店長』になることなど、全く予期していませんでした。

書けること・書けないことはありますが、私の履歴書(6)は今回とはうって変わり、自分にとっての暗黒時代の話になります。

写真:在りし日の「クラブグランパス」。かけがえなき経験であったとともに、店を守りきれなかった悔しさも未だ忘れることはできません。

みるスポーツ研究所―MIL Sports Institute―|Hiroshi Okada's Ownd

プロスポーツビジネス分野の講師を務める MIL Sports Institute代表・岡田浩志が、スポーツ産業の現場で起こっている最新動向を、関心ある方々に発信しています。

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