スポーツ産業の変遷と私の履歴書(2)

私の履歴書(1)では、1995年前後にスポーツ産業がどのような状況だったのかについて、自身の体験とともに、簡単に触れさせて頂きました。2回目・私の履歴書(2)では、時計の針を5年ほど進め、2000年前後までスポーツ産業について追憶したいと思います。

自身が大学生だった1993年-1996年は、スポーツ界にとっては大変活気ある時期でした。サッカーのJリーグ開幕・ドーハの悲劇(1993年)は国民的ブームになり、野球少年だった私も一気にサッカーの虜になりました。

野球界では、1994年10月8日、ナゴヤ球場でのセ・リーグ最終戦が、中日と巨人の優勝を争う一戦となり「10.8」として後世にも語り継がれる伝説となりました。

翌1995年には野茂英雄選手がドジャースに入団し、テニス界では松岡修造選手がウィンブルドンでベスト8、全仏オープンで伊達公子選手が日本人初のベスト4となるなど、「海外挑戦する日本人アスリート」の姿が夢を与えます。翌1996年のアトランタ五輪では、サッカー日本五輪代表があのブラジルに勝利する「マイアミの奇跡」もあり、スポーツの価値が日本中に勇気や希望を、確かに与えていた時代といえます。

1997年に自分は社会人になり、学生の頃のように思うままにスポーツ観戦を楽しめない状況になっていきました。それと時期を同じくして、スポーツ界にも厳しい時代が到来するようになります。

1997年の「ジョホールバルの歓喜」でサッカー日本代表が初のW杯出場を決めたものの、翌1998年のフランス大会本戦では1勝も挙げられず予選敗退。それよりも厳しかったのは、Jリーグブーム終焉による国内クラブの集客の落ち込みです。

横浜フリューゲルスが1998年のシーズンをもって合併消滅となり、1999年元旦の天皇杯優勝がこのチームの最期となったこと、これはスポーツ史的にみても象徴的な出来事なのです。この頃はサッカー界にとどまらず、スポーツ界全体にとって受難の時期でした。

景気の後退に苦しむ企業が、保有するスポーツ部活動を手放す動きが加速し、歴史あるクラブもこの波にあらがうことはできませんでした。この時期に廃部となったクラブをまとめたものが以下のスライドとなります。(※図表参照)

2001年以降、この苦しい流れに対抗するよう、大企業の懐に頼らない「スポーツ界の自立」を模索する動きが各方面から立ち上がっていきます。実のところ、この流れに呼応するように、自身もスポーツ界に導かれたのでした。その具体的な話は私の履歴書(3)で書きたいと思います。

参考文献:柴岡(2013)スポーツビジネス教本2013. pp.22-23(図表は筆者作成)

みるスポーツ研究所―MIL Sports Institute―|Hiroshi Okada's Ownd

プロスポーツビジネス分野の講師を務める MIL Sports Institute代表・岡田浩志が、スポーツ産業の現場で起こっている最新動向を、関心ある方々に発信しています。

0コメント

  • 1000 / 1000