スポーツ産業の変遷と私の履歴書(1)

Ameba Owndを始めて最初にやろうと考えたのは、これまで教室のなかだけで披露された自分自身のコンテンツを、少しづつWebを通じて公開してゆこう、ということです。

全てをオープンにしてしまうと、講義をすること自体に意味がなくなってしまうのですが、要点をかいつまんで、情報を開いてゆくことは、自分自身のコンテンツを磨くうえでも、役に立つと考えました。

これまでスポーツ系の専門学校などでは、年度初めの第1講で自己紹介を兼ね、スポーツ産業の簡単な成り立ちを30年ほど振り返るような講義を行っています。このAmeba Owndでも、自己紹介がてらスポーツ産業の変遷について最初に書こうと思います。

自身が「スポーツをお仕事にしたい」と明確に意識したのは、大学2年生だった1994年と記憶しています。早稲田大学にあるアナウンス研究会に所属していた自分は、当時音楽が好きだったので、DJゼミという場に所属していましたが、中学校まで野球をやっていた関係もあり、神宮球場での東京六大学野球・実況ゼミにも掛け持ちでよく通っていました。

あまり滑舌がよくないこともあり、仕事にすることに悩みはありましたが、色々仲間にも相談して、一念発起「スポーツの実況アナウンサーになる」という目標を設定し、それからは野球だけでなく、関東大学サッカーリーグの記者席にお邪魔して、サッカーの実況にもトライアルすることになりました。

スポーツ産業の変遷を歴史的に振り返ると、原田(1995)の整理に、スポーツ界の伝統的3領域として「スポーツサービス情報産業」「スポーツ用品産業」「スポーツ施設空間産業」という3領域があるとされます。自分自身は、プロ野球やJリーグが大好きでしたが、こういった領域は「ハイブリッド産業」と整理されています。(※下記図表参照)

しかしなから、当時はプロ野球球団や・Jリーグクラブが就職先として想定される状況はまったくありませんでした。

「地元の中日ドラゴンズで働きたい」と考えても、「情報産業」である中日新聞社に入社することが前提となり、野球の部門に配属されるかどうかは個人の意思でなんとかなる世界ではなかったのです。「スポーツの実況アナウンサーになる」という夢を持とうにも、応募倍率1000倍はあるような難関を通過したとして、いきなり球場からデビューさせて貰うこともありえない時代でした。

スポーツ新聞のような「スポーツ情報産業」というものは存在していても、そこで実際に働くことも簡単な世の中ではなかったのが、1995年前後のスポーツ産業の形であった、ということです。

実際に自分自身は、スポーツの実況アナウンサーになることはかなわず、色々あった求人のなかから、不動産業の営業マンになる選択をしました。

今後、スポーツの歴史についてAmeba Owndでじっくり触れてゆくのですが、「スポーツそれ自体で稼ぎ生活する」という、プロパーな働き方・生き方が生まれてきたのは、長い日本の歴史のなかでごく最近のことで、まだ産業としても未成熟である、ということを、スポーツ産業を目指すこれからの世代には最初に理解してもらう必要があると考えています。

そのような意図で、毎年年度初めの第1講で、このような経験談をお話ししています。

参考文献:松岡(2010)スポーツマネジメントの概念の再検討.スポーツマネジメント研究 第2巻第1号.pp.36-37

みるスポーツ研究所―MIL Sports Institute―|Hiroshi Okada's Ownd

プロスポーツビジネス分野の講師を務める MIL Sports Institute代表・岡田浩志が、スポーツ産業の現場で起こっている最新動向を、関心ある方々に発信しています。

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